大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所大法廷 昭和44年(あ)916号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役二年に処する。

この裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予する。

理由

弁護人妹尾晃の上告趣意第一点、同杉本幸孝の上告趣意第一点、同高橋俊郎の上告趣意、同金野繁の上告趣意第一点について

所論は、刑法二〇〇条は憲法一四条に違反して無効であるから、被告人の本件所為に対し刑法二〇〇条を適用した原判決は、憲法の解釈を誤つたものであるというのである。

よつて案ずるに、刑法二〇〇条は、尊属殺を普通殺と区別してこれにつき別異の刑を規定している点ではいまだ不合理な差別的取扱いをするものとはいえないけれども、法定刑を死刑または無期懲役刑のみに限つている点において、その立法目的達成のため必要な限度を遙かに超え、普通殺に関する刑法一九九条の法定刑に比し著しく不合理な差別的取扱いをするものと認められ、憲法一四条一項に違反して無効であるとしなければならず、したがつて尊属殺にも刑法一九九条を適用するのほかはないことは、当裁判所昭和四五年(あ)第一三一〇号同四八年四月四日大法廷判決の示すとおりである。これと見解を異にし、刑法二〇〇条は憲法に違反しないとして、被告人の本件所為に同条を適用している原判決は、憲法の解釈を誤つたものにほかならず、かつ、この誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、所論はいずれも理由があることに帰する。

弁護人金野繁の上告趣意第二点について

所論は、憲法一四条違反をいうが、その実質は刑法二〇〇条の解釈適用の誤りをいう単なる法令違反の主張に帰し、適法な上告理由にあたらない。

弁護人妹尾晃の上告趣意第二点、同杉本幸孝の上告趣意第二点、同金野繁の上告趣意第三点について

所論は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

被告人本人の上告趣意について

所論は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

よつて、刑訴法四〇五条一号後段、四一〇条一項本文により原判決を破棄し、同法四一三条但書により被告事件についてさらに判決することとする。

原判決の確定した事実に法律を適用すると、被告人の所為は刑法一九九条、二〇三条に該当するので、所定刑中有期懲役刑を選択し、右は未遂であるから同法四三条本文、六八条三号により法律上の減軽をし、その刑期範囲内で被告人を懲役二年に処し、なお、本件は、被告人がいまだ婚家における生活に馴染みきれず、その間にありがちな姑との感情のくいちがいが深刻に感ぜられて悩んでいたところへ、妊娠初期の精神的不安定も加わつて惹起された偶発的なものと認められ、その方法も、微量の猫いらずを握飯に塗布して海苔の小片でこれをおおうという幼稚単純なものにとどまり、その結果なんらの実害をも生じなかつたのみならず、被害者はこのできごとを特に問題とすることなく、その後当事者間の折合いもよくなり、互いに融和して同一家庭に同居生活を続けている模様であり、また、被告人にはその平素の行状に照らしてなんら反社会的性格が認められず、被告人みずからも本件について深く反省していることがうかがわれるなど、諸般の情状にかんがみ、同法二五条一項一号によりこの裁判確定の日から三年間右刑の執行を猶予し、第一審および原審における訴訟費用は刑訴法一八一条一項但書を適用して被告人に負担させないこととして主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官岡原昌男の補足意見、裁判官田中二郎、同下村三郎、同色川幸太郎、同大隅健一郎、同小川信雄、同坂本吉勝の各意見および裁判官下田武三の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官岡原昌男の補足意見は次のとおりであるる。

本判決の多数意見は、刑法二〇〇条が普通殺のほかに尊属殺という特別の罪を設け、その刑を加重すること自体はただちに違憲とはいえないけれども、その加重の程度があまりにも厳しい点において同条は憲法一四条一項に違反するというのであるが、これに対し、(一)刑法二〇〇条が尊属殺という特別の罪を設けていることがそもそも違憲であるとする意見、および(二)刑法二〇〇条は、尊属殺という罪を設けている点においても、刑の加重の程度においても、なんら憲法一四条一項に違反するものではないとする反対意見も付されているので、わたくしは、多数意見に加わる者のひとりとして、これらの点につき若干の所信を述べておきたい。その内容は、当裁判所昭和四五年(あ)第一三一〇号同四八年四月四日大法廷判決において述べたわたくしの意見と同趣旨であるから、ここにこれを引用する。

裁判官田中二郎の意見は、次のとおりである。

私は、本判決が、刑法二〇〇条を違憲無効とし、同条を適用した原判決を破棄し、刑法一九九条を適用して被告人を懲役二年に処し、三年間刑の執行を猶予した結論には賛成であるが、多数意見が刑法二〇〇条を違憲無効と解した理由には同調することができない。その理由は、当裁判所昭和四五年(あ)第一三一〇号同四八年四月四日大法廷判決において述べた私の意見と同趣旨であるから、それをここに引用する。

裁判官小川信雄、同坂本吉勝は、裁判官田中二郎の右意見に同調する。

裁判官下村三郎の意見は、次のとおりである。

わたくしは、本判決が、原判決を破棄し、刑法一九九条を適用して、被告人を懲役二年に処し、三年間刑の執行を猶予した結論には賛成であるが、多数意見が原判決を破棄すべきものとした事由には同調し難いものがある。その理由は、当裁判所昭和四五年(あ)第一三一〇号同四八年四月四日大法廷判決において述べたわたくしの意見と同趣旨であるから、ここにこれを引用する。

裁判官色川幸太郎の意見は次のとおりである。

私は、多数意見の説示のうち、刑法二〇〇条が身分による差別的取扱いの規定であるとする点、および、これが憲法一四条一項に違反するとの結論には賛成であるが、尊属殺人につき普通殺人と異なる特別の罪を規定することが、憲法上許容された範囲の合理的差別であるという見解には、同調することができないのである。その理由は、当裁判所昭和四五年(あ)第一三一〇号同四八年四月四日大法廷判決において述べた私の意見と同趣旨であるから、ここにこれを引用する。

裁判官大隅健一郎の意見は、次のとおりである。

私は、刑法二〇〇条の規定が憲法一四条一項に違反して無効であるとする本判決の結論には賛成であるが、その判決の理由には同調することができない。その理由は、当裁判所昭和四五年(あ)第一三一〇号同四八年四月四日大法廷判決において述べた私の意見と同趣旨であるから、それをここに引用する。

裁判官下田武三の反対意見は、次のとおりである。

わたくしは、憲法一四条一項の規定する法の下における平等の原則を生んだ歴史的背景にかんがみ、そもそも尊属・卑属のごとき親族的の身分関係は、同条にいう社会的身分には該当しないものであり、したがつて、これに基づいて刑法上の差別を設けることの当否は、もともと同条項の関知するところではないと考えるものである。しかし、本判決の多数意見は、尊属・卑属の身分関係に基づく刑法上の差別も同条項の意味における差別的取扱いにあたるとの前提に立つて、尊属殺に関する刑法二〇〇条の規定の合憲性につき判断を加えているので、いまわたくしも、右の点についての詳論はしばらくおき、かりに多数意見の右の前提に立つこととしても、なおかつ、安易に同条の合憲性を否定した同意見の結論に賛成することができないのである。その理由は、当裁判所昭和四五年(あ)第一三一〇号同四八年四月四日大法廷判決において述べたわたくしの意見と同趣旨であるから、それをここに引用する。

(石田和外 大隅健一郎 村上朝一 関根小郷 藤林益三 岡原昌男 小川信雄 下田武三 岸盛一 天野武一 坂本吉勝)(田中二郎、岩田誠、下村三郎、色川幸太郎は、退官のため署名押印することができない。)

弁護人妹尾晃の上告趣意

上告趣意第一点

第一、上告趣意第一点の論旨の要点

原判決が、本件被告人の行為を刑法第二〇〇条尊属殺人罪の未遂に該るとしたのは、同条及び憲法第一四条の解釈適用を誤つたものであり、刑法第二〇〇条は憲法第一四条に牴触する規定であるから、仮に本件が殺人未遂罪に該るとした場合においても刑法第一九九条、第二〇三条を適用すべきである。原判決の破棄を求める。

第二、以下、弁護人のこの点に関する

卑見を具体的に述べる。

一、本件の事実関係について、被告人が夫滝沢樹成の実母滝沢サトに頼まれ、サトが食べる握り飯を作る際、三個の握り飯のうちの一個に巻いた海苔の上に少量の猫いらずを塗り、これをサトに持たせ、サトは列車内でその握り飯を少し噛つたが、異臭のため、残りを車窓から投げ棄てた、というあらましについては争いがない。ただ原決判が被告人に未必の殺意を認定したのは原決判の誤りであること次の上告趣意第二点に詳しく述べるとおりであり、弁護人は、本件はたかだか暴行罪には該当するとも、殺人未遂罪を構成するに至らない事案であると考えるのであるが、この点に関する論議は次の第二点に譲り、第一点においては、仮に本件が原審判示のように夫の実母サトに対する殺人未遂罪を構成するとした場合においても、尊属に対する殺人罪について尊属以外の一般人に対する殺人罪について定める刑罰より重い刑罰を規定する刑法第二〇〇条は、以下に述べる理由により、憲法、特にその第一四条に牴触し無効であり、尊属に対する殺人の場合においても適用すべき刑法の罰条は第一九九条でなければならない。原判決が同法第二〇〇条を適用したのは、結局同条及び憲法、特にその第一四条の解釈適用を誤つたものであると信じる。よつて、左に、刑法第二〇〇条が憲法第一四条に違反すると考える弁護人の見解を明らかにし、御判断を仰ぐ。

二、尊属に対する殺傷罪に関する刑法規定と憲法第一四条との関係については、昭和二五年一〇月一一日大法廷判決(昭和二五年(あ)第二九二号事件)以来、可成り多数の最高裁判所判例があり、これら判例は、今日に至るまで、これら刑法規定が憲法第一四条に牴触するといえない、とする点において、一貫した態度をとるのであるが、その違憲性を否定する理由については、右昭和二五年判決の理由を概ね踏襲していると認められる。なお、本件は、たまたま、刑法第二〇〇条にいう自己又は配偶者の直系尊属のうち、配偶者の直系尊属に対する殺人未遂の案件であるが、最高裁判所判決として、この配偶者の直系尊属を客体とした場合、刑法第二〇〇条の適用は配偶者が生存しているときに限るとした昭和三二年二月二〇日大法廷判決(昭和二八年(あ)第一一二号事件)において、最高裁判所は、刑法第二〇〇条の規定が違憲でないとする結論は維持しながら、その理由において、昭和二五年判決の理由に若干の新しい要素を加えたということができると思う。而うして、爾後の最高裁判所判決は、その実質において、大体右の二つの大法廷判決の理由を踏襲しつつ、合憲の立場を維持しているものと認められる。そこで、本件上告論旨は、おのずから、右大法廷判決の理由を対象として、これに承服し得ない所以を訴え、なお且つ最高裁判所が右の理由と同趣旨の理由により、従来の合憲の立場を維持されるのか、又、もし従来の判例の理由によつてではなく、別の理由により、合憲の結論はこれを変更しないとされるとすればその別の理由を示されるべきことを求めることとなるわけである。

三、右の二つの大法廷判決はもちろん、その他、最高裁判所の尊属殺傷罪規定に関する合憲判決については、わが国法学各界から甚だ多くの意見が発表されているのみならず、海外においても、最高裁判所の機能と現状とに関心を寄せる法学者等から、何故に合憲説を採るのかを聞かれることが屡々であり、その多くは、わが最高裁判所が、例えば中郵事件判決(昭和三九年(あ)二九六号事件昭和四一年一〇月二六日言渡)のように労働事件ないし戦後の松川事件その他においては賞讃すべき判決を下しながら、刑法犯、わけてもこの尊属殺傷罪について、何故に合憲説を固持するのか理解に苦しむ旨を訴えるのである。

昭和二五年の大法廷判決以来既に殆んど二〇年に垂んとする年月が経過し、その間において右のように多数の意見が学界その他において発表されているのみならず、昭和二五年判決の大法廷を構成された一五名の最高裁判所裁判官は、既に五年以上前に全員更迭され、現最高裁判所裁判官は、一名として、これに関与されてはいない。してみれば、本件について、改めて最高裁判所の見解を求めることも、十分に正当化されると信じる。殊に、右昭和二五年判決中にも、既に傾聴すべき強い反対意見があつたことでもあり、又、同判決関与裁判官の年令層(明治一四年ないし同二七年生)と、現最高裁判所裁判官の年令層(明治三三年ないし同三九年生)との比較、及び、その年令から考えられるこれら各裁判官が受けられた小学校以来の学校教育の内容や時代的背景、並びに、右昭和二五年判決は、言渡しの時点において憲法施行以来僅か三年余に過ぎなかつたのに比べ、憲法は既に二二年以上に亘つて施行されている今日であること等の事情を考え合わせるとき、この際右昭和二五年及び昭和三二年の大法廷判決が判決理由として説くところに関し、改めて御判断を求めることは、これを求めるについて相当の理由があることを承認して頂けると信じる。

第三、従来の最高裁判所判決理由に対する批判

一、昭和二五年大法廷判決について、判決理由を、なるべく判決記載の順序に従つて検討する。

(1) まず第一に、この判決も「憲法第一四条が法の下における国民平等の原則を宣明し、すべて国民が人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係上差別的待遇を受けない旨を規定したのは、人格の価値がすべての人間について平等であり、従つて人種、男女の性、職業、社会的身分等の差異にもとづいて、あるいは特権を有し、あるいは特別に不利益な待遇を与えられてはならぬという大原則を示したものに外ならない。」とし、「奴隷制や貴族等の特権が認められず、又新民法において、妻の無能力制、戸主の特権的地位が廃止せられたごときは、畢竟するにこの原則に基くものである。」として、これらは右の大原則の具体的展開である旨を例示する。この点までは、判示はもとより正当であり、万人がひとしく首肯するところ、何等異をとなえる余地はない。しかし、判示が正当なのは、そこまでであつて、以上の判示の直ぐ次に引続き、「しかしながら、このことは法が、国民の基本的平等の原則の範囲内において、各人の年令、自然的素質、職業、人と人との間の特別の関係等の各事情を考慮して、道徳、正義、合目的性等の要請より適当な具体的規定をすることを妨げるものではない。」とする点に至つて、早くも既に矛盾と破綻を示すものである。ここまでの前半において、憲法第一四条は、法の下における平等の大原則(傍点弁護人、以下同じ)を示したものであるとしてその大原則を高らかに掲げ謳い、その大原則とは、苟しくも例外の存在を許さざる趣旨における徹底的な、最重要な根本原則であるとする印象を与えながら、実は、さにあらず、右引用部分の後半にいう広汎な例外をいわゆる「原則」と「例外」との関係における例外として広く認める趣旨を示し、前の原則は、この例外を示したいために前置した「原則」でしかなかつたことをあらわにする。前半に「大原則」というのは、決して言葉の本来の意味における大原則ではなく、あくまで、単なる一応の原則に過ぎず、道徳、正義、その他の要請により、例外を認めることが相当とされる場合には、右の一応の原則に対する例外となる規定を設けても何等差支えなく、これは、「道徳、(正義、合目的性等)の要請にもとづく法による具体的規定に外ならない。」として、例外の存在を積極的に承認し、弁護し、原則の攻撃に対し例外を防戦し保護する立場をとるものである。この判例の右の立場は、右の判示に引続く次の判示(判例集第二〇四〇頁第四行目以下)において「憲法第一四条一項は、国民を政治的・経済的又は社会的関係において原則として平等に取扱うべきことを規定したもの」に過ぎないとし、従つて、その裏を返せば、例外的には不平等な取扱いをも許す趣旨の規定である旨を判示し、「国民がその関係する各個の法律関係においてそれぞれの対象の差に従い異る取扱を受けることまでを禁止する趣旨を包含するものではない。」とするに至つて極めて明瞭となる。

しかしながら、この大法廷判決が、「道徳、正義、合目的性等の要請にもとづく法による具体的規定」とする法律の規定が憲法第一四条第一項に牴触するかどうかが常に問題とされるのであつて(その場合に、問題とされる規定が、何等道徳、正義、合目的性等のいずれの要請にもとづくものとも見えず、誰の目にも、このような一応尤もと見える何の要請にもとづくものでない恣意的な、それでいて憲法第一四条第一項に牴触すると認められるような規定である、という場合は、実際問題として殆んど考えられない。)、この判決のように、苟しくもこれらの要請上適当と認められる場合には、差別的取扱を規定する法も是認されるとすることは、その具体的適用を制定法についていえば、たとえその「法が、国民の基本的平等の原則の範囲内において、適当な具体的規定をする」ものと解釈され、立法についていえば、その意図での立法を善意で行うものであると説明されようとも、ともに、結果において、憲法第一四条第一項に定める法の下の平等の大原則に対する例外を広汎に承認することに通じ、到底右の大原則を維持することはできなくなつてしまう。この判決は、右の大原則が如何にすれば維持され得るかについて、何等の保証も示さない。法が、各人の年令、職業、人と人との関係等の各事情を考慮し、道徳、正義、合目的性等の要請から適当な具体的規定としてある規定を設ける場合、その具体的規定が、この判決も承認する「国民の法の下の基本的平等の大原則の範囲内」か否かが、とりもなおさず、刑法において尊属殺傷を一般の殺傷に比し重く罰することとしている規定の合憲か違憲かの問題であり、この判示は、問をもつて問に答えるものである。

(2) 次に、この大法廷判決は、「刑法において尊属親に対する殺人、傷害致死等が一般の場合に比し重く罰せられているのは、法が子の親に対する道徳的義務をとくに重要視したものであり、これ道徳の要請にもとずく法による具体的規定に外ならない」とし、又、「子の親に対する道徳的義務をかように重要視すること」は、「夫婦、親子、兄弟等の関係を支配する道徳は、人倫の大本、古今東西を問わず承認せられている人類普遍の道徳原理、すなわち学説上所謂自然法に属するもの」であると判示し、「被害者が直系尊属なる場合においてとくに重い法定刑を適用する」「立法の主眼とするところは被害者たる尊親属を保護する点には存せずして、むしろ加害者たる卑属の背倫理性がとくに考慮に入れられ、尊親属は反射的に一層強度の保護を受ける」ものであると解釈するのが妥当であると判示する。

「夫婦、親子、兄弟等の関係を支配する道徳」や、この判決が「法が特に重要視する」という「子の親に対する道徳的義務」を、「人倫の大本」、「人類普遍の道徳原理」、「すなわち学説上所謂自然法に属するもの」というか否かは、表現用語のオーバーな点はそれとして、そのいわんとする趣旨は理解できないのではない。しかし、右の夫婦、親子、兄弟等の関係を支配する道徳の中でも、夫婦や兄弟等の関係を支配する道徳については、例えば妻から夫に対する場合でも、又、弟から兄に対する場合でも、殺傷罪の罰則を一般の殺傷の場合より特に重くしてはいないのであるから、夫婦や兄弟を引合いに出しても、親子関係において、しかも親から子に対する場合は除き、子から直系尊属に対する場合のみに限り重罰を規定することの説明としては、甚だ不十分な説明であるとしなければならない。しかも、この判決は、法がとくに重要視したという「子の親に対する道徳的義務」なるものの内容が、一体何を指すかについては、一言半句の説明もせずして、「原判決が子の親に対する道徳をとくに重視する道徳を以て封建的、反民主主義的と断定したことは、これ親子の間の自然的関係を、新憲法の下において否定せられたところの、戸主を中心とする人為的、社会的な家族制度と混同したものであ」ると非難するのみならず、この原判決の誤謬は、「畢竟するに封建的、反民主主義的の理由を以て既存の淳風美俗を十把一束に排斥し、所謂「浴湯と共に子供まで流してしまう」弊に陥り易い現代の風潮と同一の誤謬を犯しているもの」であるという。

(3) この大法廷判決のいう「子の親に対する道徳的義務」とは、何なのであろうか。否、より正確にいえば、この判決の多数意見を構成した当時の最高裁判所裁判官が、子の親に対する道徳義務とは、これを如何なる内容のものと考えていたのであろうか。この判決自体は、その内容如何を何等具体的に吾人に示してくれないので、おのずから、われわれの方で、これを探究してみなければならない。判決文の上における手がかりとしては、それは、右の裁判官諸公が、その受けた教育教養等を背景として「親子の間の自然的関係」にもとづくものであつて、「人倫の大本」、「古今東西を問わず承認せられているところの人類普遍の道徳原理」「に属するもの」と考えた「親子間の関係を支配する道徳」を意味することが、判文上窺える。而うして、多数説意見、即ちこの判決の理由の中には、右のように、「子の親に対する道徳」、ないし「道徳的義務、」という表現を用いながら、われわれがその表現によつて恐らく一人残らず連想すると思われる「孝行」という言葉は、一度も用いていない。しかしこれは、孝行という表現を故らに回避したからだけのことであつて、子の親に対する道徳的義務という言葉が「孝」を意味したものであることは間違いがない。これを、明らかに裏付けるのは、多数説に賛成する斎藤悠輔裁判官の補足意見である。そこには、多数説の説く人倫の大本、人類普遍の道徳原理とは、親子の道徳である孝であり、孝は結局祖先尊重に通ずる子孫の道であるということが明記されており、「原判決並びに少数意見の思想のごときは、この道義を解せ」ざる「忘恩の思想」であるとされている。この補足意見によつて裏付けられる多数説のいう、子の親に対する道徳義務としての、親に対し孝を行う義務を強調し、且つ、これを粗略にする思想を忘恩の思想であるとする道徳は、疑いもなく儒教道徳であり、儒教道徳としての親に対する子の孝、即ち、親をうやまい親に服従する義務は、主君に対する臣下の服従義務と並んで、徳川幕府以来の封建制社会を支えてきた最も基本的道徳であり、明治維新後においても、政府の武士的儒教道徳に対する積極的支持普及政策により、明治一二年の教学大旨、同一五年の幼学綱要から、ほぼ明治二三年の教育勅語発布当時までにおいて既に国民教育の基礎として公式に承認され、爾来わが国において、小学教育の修身をはじめ国民教育の最も基本的原理となつて、敗戦に伴う民主主義的思想革命に至るまで、強く存続するのである。この道徳観の下においては、子は生れながらに親に対し、親が自己をこの世に生んでくれた恩に始まり、子自らは幼少のため自己を養う能力を備えていないその小さい時から自己を養育してくれた恩その他、海よりも深く山よりも高い無限絶対の恩を負うものであり、孝はこの恩に報じる子の絶対無限の義務とされ、子は自らいくら老令になろうとも終生、親に対しては、これを尊び敬まい、ひたすらに事えまつり、何ごともそのおおせに従い、苟且めにも背いてはならないのであるから、親のいいつけは、あらがうことを許されない至上命令として受け取るべきことが要求されるのであり、この関係は、多数説が「親子の間の自然的関係」と見るかどうかは別として、これが多数説のいう「子の親に対する道徳的義務」の内容に外ならないことが歴史的事実として明らかであると考える。さてこの関係は、なるほど、多数説が、原判決が混同したと非難する「戸主を中心とする人為的、社会的な家族制度」そのものではないであろうが、親の、従つて家父長の、日常家庭生活の場を一貫して優位――子からの尊敬恭順を求め、子を支配服従する地位――を無条件に恒常化せしめようとする意識に必然的に連なるものである。どうしてこれを封建的、反民主主義的でないといえるであろうか。法律論の立場を離れて、単に親と子が互いに慈しみ愛し合う自然的情愛感の美しく、ほむべきことは何人も争う者はないであろうが、此と彼とは、それこそ全く混同を許さざるものであり、大法廷判決が「子の親に対する道徳」ないし「道徳的義務」として、その要請にもとづくものなるが故に尊属殺傷罪に対する重罰規定は、法の下の平等の原則に牴触しないとする儒教道徳の「孝」は、当然には、この重罰規定の憲法適合性を弁護するものではないことを知るべきである。子の親に対する孝の観念を、「既存の淳風美俗」の一つと考えることについては、あえて反対する必要はないが、そもそも「淳風美俗」という概念による発想自体が、民主主義的、法律的には馴染み難い、憲法の枠外における発想であり、大法廷判決は、刑法第二〇五条第二項を違憲とした原判決は、「既存の淳風美俗を十把一束に排斥」するものであるといい、「浴湯と共に子供まで流してしまう」弊に陥り易い誤謬を犯すものと非難するのであるが、この大法廷判決こそ、子供を浴湯と共に流すことを恐れる余り、子供の体にこびりついた古臭く有害な垢を洗い落すことすら忘れ、愛児の健全な発育を阻むものである。大法廷判決は、尊属殺傷罪を一般の殺傷罪より重く処罰する立法の主眼は、加害者たる卑属の背倫理性――最大の親不孝という道徳的大罪を指すのであろう――を特に考慮したものであるとして、尊属親が一般人より一層強度の保護を受けることは認めながら、それは単に「反射的」な作用に過ぎないと弁解じみた説明をする。しかし、これは論理の問題としても、全く説明の体をなさない説明であつて、詭弁という範疇にも当てはまらない。まるで、シーソーの右が下るのは左が上ることの反射作用であるというのに似た説明である。卑属の背倫理性を強く非難する、ということと、尊属親を子の行う殺傷罪について一般人よりも重く保護する、ということとは、尊属殺傷罪に関する刑法罰条の説明としては、同じことを言葉を変えて表現するものに外ならず、いずれの表現によろうとも、その特に背倫理性を強く非難したり、特に強く保護したりする立法の主眼が、憲法第一四条第一項に牴触するか否かが問題であるのに拘らず、右の説明はこの問題には何等の答えも与えないものである。

(4) 次にこの大法廷判決(判例集第二〇四〇頁)は、憲法第一四条第一項の解釈として「親子の関係は、同条項において差別待遇の理由として掲ぐる、社会的身分その他いずれの事由にも該当しない。」とする。果してそうであろうか。同条項にいう「社会的身分又は門地」の意味は、判例によるもまた学説によるも、必ずしも明確でない。殊に「社会的身分」と「門地」との使い分けの意義も定かでない。しかし、そもそも憲法第一四条第一項は何のために社会的身分による差別を禁止し、法の下の平等の原則を維持しようとしているのかを考えれば、おのずからここに「社会的身分」というのは「本人の意志にかかわりなくその出生によつて決定される社会的な地位又は身分をいうものとみるべきであり(法律学全集4憲法Ⅱ、宮沢俊義、第二七五頁以下)、社会的身分と門地とはどう違うかというに、両者ともに、出生によつて決定される社会的な地位又は身分をいう点においては同一であるが、門地はむしろ多かれ少かれ特権的身分を指す場合が多いのに対して、社会的身分は特に不利益に扱われている身分をも含むであろうとされる(同上第二七七頁)。弁護人は両者の区別は、同じく出生によつて決定される社会的な地位又は身分をいうのであるが、門地はこれをその人又はその人の地位又は身分のよつてきたる源、その出所の面に着眼していうのに対し、社会的身分の方はその源や出所よりもよつて招来されている現在の状態に着眼していう表現であると考える。英文において門地はfamily originであり、社会的身分はSocial Statusであることはこの解釈の参考となると考える。

いずれにしても、人がある特定人(親)の子であることを理由として、即ち、本人の意思、希望の如何に拘らず生れながら先失的に決定されている地位によつて、これにその親との関係において、特に不利益な差別待遇を与えることは、憲法第一四条第一項にいう社会的身分により社会的関係において差別するというに該当すると考える。昭和二五年の大法廷判決は、この点において、憲法の右条項に関する最高裁判所の従来の解釈を改めることにより、充分な変更理由をもつて変更することができると考える。

元来同条項において「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により」、「政治的、経済的又は社会的関係において」差別されないといつているのは、その前の「すべて国民は法の前に平等であ」ることを、例示的に説明する規定に外ならないのであるから、判示のように、「親子の関係」が右例示の「人種、信条、云々」による「政治的」、「経済的」又は「社会的」関係のいずれかに該当するか、いずれにも該当しないかを、一つずつ順々にとりあげて、これを順々に否定して行くだけで、憲法第一四条第一項の問題でないといい切るのは誤りであると考える。

又、同条項は、既に上に指摘しておいたように、ただ単に「原則として」法の下の平等な取扱いを一応規定したに過ぎないものと解釈し、従つて、同条項の例示するような差別でも、憲法上許されるものがある、という解釈上の余地を容易に残すことがあつてはならないのであるから、仮に極めて限局された範囲内では、同条項に対する除外例を認めるべきであるという立場をとるとしても、その除外例として許される差別的取扱いは、内容、態様及び理由のすべての点において、十分に民主主義の理念に照し正当視されるだけの合理性をそなえたものに限られるべきであり、単に手続的不便や煩瑣を回避するための差別や、行政的恣意の跳梁を許す危険に連なる差別や、人間性の尊重や個人の尊厳を損なうおそれのある差別等、総じて、民主主義の理念を危うくするようなおそれがないことが十分な確実性をもつて合理的に肯定できるものに限局されなければならないであろう。上に述べた儒教道徳に基礎をおく親孝行も、これを純然たる道徳の範囲内に止まる問題としてならば、何等差支えもないであろうが、一旦これを法律、憲法に係わる問題として取り上げるとなると、思考の方向が、どうしても、「孝行は子の親に対する道徳的最大の義務であるから、法律の規定をもつて子に対しこの道徳の実践を強制することもむしろ倫理の当然の要請であり、しかも、その強制というも、道徳の実践そのものを直接に強制する訳ではなく、この倫理背反に対し、いささか重い刑罰をもつて臨むという、いわば間接強制に過ぎないのであつてみれば、人倫の大本を弁えず直系尊属を殺傷するがごとき背徳の子に対し、一般の殺傷に比し重い刑罰を規定するは理の当然である」という方向に向つて、次第次第に加速度的に傾斜して行き易く、現にその所産として、この昭和二五年大法廷判決のような、いわば不肖の子が誕生したのである。尤も、この判決は、直系尊属に対する殺傷罪の規定が、憲法第一四条一項の命じる法の下の平等な取扱いに対する明白な例外たることを卒直に承認しながら、その合理性を理由づけようとするものなのか、又は、敢えて同条項に対する例外をなすものにあらず、とするのかすら、必ずしも明らかではなく、恐らくは前者であろうと思われるのであるが、いずれにしても子の親に対する儒教道徳の孝の教えが、一つの徳性として、純然たる倫理道徳の分野において抽象的に占めることを許される領域を超え、われわれの営む具体的社会生活とのかかわりにおいてこれを規制する法としての力を認めるものであり、これを認めるに急であつて、いうところの道徳即ち孝が、歴史的に証明されている封建的社会制度、家族制度の確立維持につき強く大いなる影響を与えた事実を忘れ、従つて、この道徳の要請し要求するところを法律上是認することは、当然に、封建的、反民主主義的な体制制度の温存庇護となることに思い及ばなかつたものという外はない。

(5) なお同判決(同上第二〇四〇頁第一四行以下)は、原判決が「親族関係は刑の量定の分野において考慮されることは格別」とした点をとらえ、これこそ憲法違反であると判示する。

しかし、万人に共通して同様に適用される刑罰法中に法定刑として定められた刑の枠内において、被害者との親族関係を刑の量定の資料にすることは、刑事裁判において当然行われる量刑裁量の問題であつて、原判決は、正にこのことをいつているのであり、これと、特定の親族関係、例えば父子、夫婦等の関係を理由として、一般人に対する同種の罪の刑と異なる刑を法定刑として規定することとは全く別個の問題であり、後の場合におけるその法律の合憲性こそは、まさしく本件におけるが如く憲法問題であるが、前の場合を憲法問題という者はいない筈であり、大法廷判決のこの点に関する右判示の方が何か誤解しているものと思われる。

(6) 更にこの大法廷判決は、その多数意見の理由の最後の段(同上第二〇四一頁第三行目以下)において、原判決が「被害者が直系卑属またはその配偶者なる場合には、刑法二〇五条一項の規定の適用があることを指摘し被害者が直系尊属なる場合との不均衡従つて不平等を非難するが、この種犯罪に関し、被害者たる親族の範囲を如何に区劃するやは、立法政策上の問題であり、(中略)従つて原判決がこの点を指摘して以て本条項の違憲性を認めるのは、憲法論と立法論とを混同するものであることまさに上告趣意(6)の所論のごとくである。」と判示するのであるが、この点においてもまた、この判決は原判決の理由を誤解し、その誤解に立つて原判決を非難しているものである。直系尊属に対する殺傷罪を一般人に対する殺傷罪より重く罰するとした場合に、その直系尊属の範囲を如何に区劃するかは、この判決にいうとおりいかにも立法政策上の問題であるが、原判決はそれを問題として違憲論を述べているのでないことは大法廷判決が引用摘示している原判決の理由の部分自体によつて何人の眼にも明白である。また原判決が「憲法論と立法論とを混同する」「こと正に上告趣意(6)の所論のごとくである。」と判示する点においても、この判決は、上告趣意(6)(同上第二〇六七頁)を読み違えていることが上告趣意(6)を一読して直ちに判明する。上告趣旨(6)は、現在既に普通人に対する殺傷罪の規定により広汎な法定刑が認められているのであるから、更にこれに加えて新たな立法を行ない特に尊属の場合をこれと区別してその法定刑を高める必要はないであろうが、それは、まだ尊属殺傷に関する現行規定のような規定が成法として存在しないと仮定した場合における特別規定立法の必要不必要に関する論議であり、これと、現に厳存する成法としての尊属殺傷に関する規定が憲法に反するか否かの問題とはあくまでも区別されなければならない旨を主張したものである。然るに、この大法廷判決は、恰かも上告趣意(6)が尊属殺傷罪に関し被害者たる親族の範囲を如何に区劃するかが立法政策上の問題であると訴えているものと感違いし、その感違いのままで原判決が刑法第二〇五条第二項の違憲性を認めた点を憲法論と立法論とを混同するものであると非難しているものであり、全く見当違いの非難に過ぎない。

この大法廷判決の多数説理由がいずれの裁判官の起草にかかるものかは、外部のわれわれが窺知し得ないところであるが、審級のいかんを問わず、いわゆる職業裁判官の作成した判決理由に慣れている者の立場からいえば、このように見当外れの判決理由を示されては、全くやり切れないのである。結論の公正妥当を望むことはもとよりなのであるが、よし結論においては一八〇度われわれと見解を異にするものであろうとも、まともに論旨に答えての判示でない限り、どうして判決の権威に堪えようか、況んや最高裁判所の判決なるにおいておやである。右の大法廷とは全く構成を新たにされている最高裁判所に切望する点は、ここにこの上告論旨をもつて訴える卑見の当否、その採否を垂示されるに当り、ひとり弁護人のみならず、判決を知る者すべてが、心から判決に敬意を表し悦んでこれに承服するものとして頂きたい。

二、昭和三二年大法廷判決(昭和二八年(あ)第一一二六号、昭和三二年二月二〇日言渡)について

(1) この判決は、刑法第二〇〇条にいう「配偶者の直系尊属」に関する判例であり、同条にいう配偶者の直系尊属とは、現に生存する配偶者の直系尊属に限る趣旨の判決である。この判決はその理由を、旧民法下の「家」の制度が新民法により廃止されたことを拠りどころとしており、その限りにおいて勿論誤りはないのであるが、新民法により廃止されたのは、ひとり「家」の制度だけでないこというまでもないのであつて、「家」と不可分の関係において家族に対し強大な権力を振舞つた「戸主」も、法定推定家督相続人制も、およそ新憲法の根本理念である「民主主義」と「個人の尊厳」と「基本的人権」に牴触する在来の制度は、すべて廃止され消滅したのであり、この事実と、刑法においても新民法施行と相前後して、「皇室に対する罪」が全部削除された事実、並びに、その廃止前の刑法において、天皇に対する殺傷罪と尊属に対する殺傷罪とが、共に、普通人に対する殺傷罪の刑より遙かに重い刑を定められていた事実とは、これを、憲法の基本理念として一般に承認されている民主主義、個人の尊厳、及び、基本的人権の原理に照し、有機的総合的に理解しなければならない。そうした考え方の立場に立つとき、皇室に対する罪が全面的に廃止されているに拘らず、尊属殺傷に関する重罰規定のみが廃止を免れてなお刑法中に残存しているとはいえ、その存在理由を積極的に説明し支持し得る手だてはない筈である。

(2) 皇室に対する罪が刑法中から削除されたのは、主権在民の新憲法下において国の統治形態に直接関係する天皇制の問題としてこれを理解すべきである、とするのであろうか。又、論者は、これに比べ、尊卑属の関係は、「親子の間の自然的関係」に過ぎず、国家組織の政治形態に無関係な「人と人との間の特別な関係」に過ぎないから、「家」や「戸主」や「長子相続制」等の廃止に拘らず、尊属殺傷に重罰を科する刑法第二〇〇条は、なお存置しても違憲でない、と弁護するのであろうか。あるいは、天皇、皇后、皇太后等は憲法第一四条第一項にいう「身分」であるから、といい、尊属殺傷の規定は特定の尊属の保護規定でなく尊属一般についての規定であるから、(昭和二五年一〇月一一日大法廷判決の上告趣意(2)(料例集第二〇六三頁)参照。)とでもいうのであろうか。憲法が、単に国家組織の大綱や政治形態のみを規定する条規に止まるものでないことはいうまでもない。憲法は、主権の担い手たる国民を構成する個人の一人一人についてまずその尊厳性を高らかに謳う思想に発する最高法規であり、人と人との関係は、国家組織や政治体形と憲法的にかかわりのない問題では決してない。「天皇」や「皇族」は、身分であることは確かであろうが、それは、社会的身分というよりは、政治的身分という色彩の方が遙かに強いに拘らず、憲法第一四条第一項には「社会的身分」という表現はあつても「政治的身分」という規定はない、という者もあるかもしれない。特定の尊属に対する保護規定でなく尊属一般についての規定であるといつても、その尊属一般――ここに尊属一般というのは、直系卑属を有する直系尊属の地位にある者はすべて、という意味であろうか――が、他の何人との関係においても、殺傷罪の被害者の立場に立つ場合には、その加害者を、その他の殺傷罪の場合よりも重く罰するということではないのであつて、直系尊属たる身分を有する者が、自己の直系卑属又はその配偶者との関係においてのみ、一般の殺傷罪の場合に比し差別(被害者たる直系尊属にとつてはより有利な、加害者たる直系卑属又はその配偶者にとつてはより不利な差別)扱いを規定するのが刑法第二〇〇条であつてみれば、同条は依然として、社会的身分による差別を法定する規定であることに変りがないのである。

(3) この昭和三二年大法廷判決が、「家」の制度の廃止をいうのは正しく、この判決は「むしろさきの判決(昭和二五年一〇月一一日の大法廷判決)の少数意見(真野・穂積両裁判官)の精神にしたがつたもの」と見る向き(前出憲法Ⅱ、第二九二頁参照)もあるのであるが、折角そこまで判示し言及する以上、更に今一歩を進めて、旧民法下の家族制度、戸主制度の全面的廃止、及び、国家統治形態における天皇対臣民という関係の廃止が、いずれも、民主主義の基本原理の要請に基くものである点に思いを及ぼし、その観点からする刑法第二〇〇条の評価をなぜしなかつたのであろうか。これらを一貫して強く流れる新憲法の理念を、そうした観点から正当に評価する場合、刑罰法規において、人の生命の価値に差等を是認するのは、まさしく憲法違反たることを、極めて自然な思考過程により知ることができる筈である。直接に違反となる憲法の条文を求めれば、もちろん、「法の下の平等」の大原則を規定している第一四条第一項であるが、特定人(ある親)の子であることを理由として、その親(特定人)との関係において、特に不利益に差別することは、憲法第二四条第二項が家族に関する事項に関して、法律は、「個人の尊厳」に立脚すべきものと規定する精神にも背馳し、その根本において、前文を含む憲法そのものに反するとしなければならない。

三、以上に検討したように、大法廷判決は、昭和二五年及び同三二年の判決を通じ、親子の関係をもつて人倫の大本、人類普遍の道徳原理の上に立つものとし、これを律する関係はこの原理に基いて確立した法秩序であつて、新憲法の下においても否定せられるべきいわれはないとする。

しかし、直系血親族たる実の親子の関係にあつてはともかく、「配偶者の直系尊属」に対する刑法第二〇〇条の関係は、いかに千万言をついやそうとも、畢竟人為的な関係に過ぎない。婚姻の事実なかりせば全く他人同志である男女が、偶々婚姻関係に入ることにより、互いにその相手方の直系尊属を、たとえ相手方の生存中に限るとしても、しかも自己固有の直系血尊属のほかに、これを加えて、あたかも自己の直系血尊属と同様の関係におく、というのは、決して自然的思考ではない。尊属殺傷罪に関し大法廷判決が「人倫の大本、人類普遍の道徳原理」というものの正体は、孝を教える儒教道徳であることを既に上に論及したが、もし判例のいう自然法又は人倫の大本、即ち孝を説く儒教道徳が、尊属殺傷に対する刑罰加重規定の存在理由であり、且つ、配偶者の直系尊属についてもその理由により同一の結論を維持すべきものであるとするならば、当然次の一つの疑問に逢着する。即ち、他の外国は暫く措くとしても、わが国において古来の淳風美俗を馴致した発祥の源とされ、且つ、人倫の大本を説く儒教思想とその道徳観念とを、わが国よりも遙かに直接的関係において継承している中華民国において、刑法第二七二条が、尊属殺人の加重刑を自己の直系の血親たる尊属に限定し、配偶者の直系尊属に及ばしめていないことを、如何に説明し得るであろうか。参考までに、同国刑法の関係条文を示せば次のとおりである。

中華民国刑法

第二十二章 殺人罪

第二百七十一条 殺人者 処死刑 無期徒刑或十年以上有期徒刑

前項之未遂犯 罰之

予備犯第一項之罪者 処二年以下有期徒刑

第二百七十二条 殺直系血親尊親属者    処死刑或無期徒刑

前項之未遂犯 罰之

予備犯第一項之罪者 処三年以下有期徒刑

中華民国刑法の下において、刑罰が加重されるのは、自己の直系尊属に対する罪の場合にとどまり、配偶者の直系尊属については一般人と全く同一に取扱われていること殺人罪にとどまらず、傷害罪(第二八〇条)、暴行罪(第二八一条)、遺棄罪(第二九五条)、不法監禁その他の自由妨害罪(第三〇三条)についてすべて同一である。然るに、我が刑法は尊属殺人(第二〇〇条)のみならず、尊属傷害致死(第二〇五条第二項)、尊属遺棄(第二一八条第一項)、尊属逮捕監禁(第二二〇条第二項)のすべての罪について、自己の直系尊属のみならず配偶者の直系尊属に対する場合も一律に刑を加重しているのであるから、我が刑法は、大法廷判決の表現を借りれば、法律が実親子関係について子に対し要求する、人倫の大本と道義の根本に基づく倫理道徳と同一の倫理道徳を、配偶者を通じ、人為的に設定される尊卑属関係においても、法律上、要求するものであり、これを説明するについて、大法廷多数意見は、配偶者の他方配偶者の直系尊属に対する関係は、自己の直系尊属に対する関係に準じて重視すべきものとするのであるが、我が刑法のように、制定法をもつて、又は制定法に対する解釈によつて人為的に準ぜしめる範囲が拡げられれば拡げられるほど、それだけ大法廷多数意見の所謂自然法的な倫理道徳から遠ざかつて行くことは否み難いところであり、これを「実親子関係」と「配偶者他方配偶者の直系尊属関係」とに共通して矛盾なく統一的に説明することは、実は、多数説のいう倫理や道徳をもつてしては最早不可能であるか、仮に不可能ではないとしても極めて不自然であることを否み難い。両者に共通して統一的に、尊属に対する刑罰加重規定の目的なりその存在理由なりを説明するためには、どうしても、旧民法時代までは是認せられていた家父長の卑属に対する権威を加重罰則の制裁をもつて法律上強制し、そこに権力服従の秩序を人為的に維持し、存続しようとし、これがため、家族の側からするそれに対する服従関係を、人倫の大本に適う美徳と賞揚したものとしか説明が出来ない筈である。天皇制と、家父長制とはスケールの大小の差こそあれ、また一方は直接に国家権力の行使形態としての政治の体制に係わり、他方は一応国家権力や国の政治形態と直接には係わりの少ない各人の所属する家の長と家を構成する構成員との間の関係であると分けて考えることは可能であろう。むしろ、分けて考えるべきであり、両者を同日に論じるのは誤りであるとする論者もあるであろう。しかし、そういう分け方が、実は、甚だ旧憲法的な考えなのであり、国家的なものは、個に連なるものより優位にあるべきであるという妄執にほかならない。天皇制も家父長制も、いずれも、昭和二五年の大法廷判決について既に述べたように、明らかに憲法第一四条第一項にいう「法の下の平等」の原理に反する。然るに、この天皇制や家父長制の維持継続のため、人間相互間の法の下の不平等を法律上是認するにとどまらず、刑事罰をもつて強制する点において、昭和二二年法律第一二四号(同年一一月一五日施行)により廃止せられた皇室に対する罪と、右に掲げた直系尊属に対する殺傷罪その他の罪とは、共に、全く同一の憲法的評価と批判を受けざるを得ないものである。法理論としては、その憲法第一四条違反を弁護する余地はない。

四、宇都宮地方裁判所第一刑事部は、昭和四四年五月二九日言渡した二つの判決(昭和四三年(わ)第二〇五号尊属傷害致死被告事件、及び、同年(わ)第二七八号尊属殺人事件)において、尊属殺傷罪に関する刑罰加重規定が憲法第一四条に違反する無効の規定たることを極めて明快に判示した。その判決理由は、右に掲げた最高裁判所大法廷各判決が理由として判示する立場を先ず是認する旨を明らかにしつつ、その大法廷判決の立場を論理的合理的に更に深く探求し、推進するとき、必然的帰結として憲法第一四条違反の結論に到達する外はない旨を判示して余すところがない。よつて、弁護人はこの宇都宮地方裁判所の二つの判決の理由を以下に摘録引用しつつ、これを援用して、上告趣意とする次第である。この二つの判決は、一つは刑法第二〇五条第二項を違憲無効の規定と論断して実父に対する傷害致死罪につき同条第一項を適用し、他の一つは、刑法第二〇〇条を違憲無効として実父に対する殺人罪につき同法第一九九条を適用したものであつて、刑法第二〇五条第二項及び第二〇〇条がそれぞれ違憲無効である旨を判示する理由は、二つの判決を通じ、全く同一である。従つて、ここには右の二つの事件のうち、尊属殺人被告事件における判決理由の中から刑法第二〇〇条に関する判示部分を摘録引用することとする。同判決は、「親子その他の直系親族間の生活関係は、尊属から卑属に対する保護慈愛の一方的関係ではなく、卑属から尊属に対する扶養敬愛の関係が、これと不可分に結合して併存する相互的関係である」とし、且つ、この関係こそ、「改正民法下の親族共同生活の基調である個人の尊厳と自由平等の原理に従う、尊卑の身分的序列にかかわらない本質的平等の関係である」と理解すべきことを説き、その故に、「直系親族は、具体の生活を共同にすると否とに拘らず、互いに協力扶助の関係と相互の情愛とに基いて緊密に結合するのが常であり、このような直系親族の結合は、夫婦の結合と同じく、社会生活の基盤をなすものとして社会の維持発展に不可欠なのであるから、これを破る直系親族間の殺人は、反倫理性反社会性において他人に対する殺人よりも一層強く、従つて尊属殺に関する刑法第二〇〇条の重罰規定は、それなりに正義及び合目的性の要請に合致するもの」とした上、「同一の見地からして、夫婦間の殺人についても、直系尊属が直系卑属を殺害する場合についても、その反倫理性反社会性は、直系親族間の殺人に比し優るとも劣らない」と論断する。

この宇都宮地方裁判所の判決は、弁護人が、昭和二五年及び昭和三二年の前記大法廷判決に対し、その矛盾と信じる点を衝き、誤謬と考える点を指摘した殆んどすべての点に関し、しかも大法廷判決の理由を是認しつつその是認される合理的理由を更に発展展開して右のような結論を導き出しているものであり、隻手を挙げて賛意を表したい。この判決を読んで右の最高裁判所の判決に関し思うことは、結局、最高裁判所判決は、親から子に対する一方交通として道徳論をいうにとどまるに比べ、宇都宮判決は、これを親と子の双方から互いに相手方に対する精神的、経済的又は肉体的各側面においてする協力扶助の関係と相互の情愛に基く緊密な結合関係として把握する点において、どうしても後者に左袒せざるを得ない点である。右最高裁判所大法廷を構成された裁判官諸公に対し、親に対する子の孝養責任のほかに、これと並んで、親から子に対してしも相互に協力扶助し合うべきものという考えを求めることは無理な話であつたかも知れないことを思うものである。しかし、確実にいえることは、右の裁判官諸公が好まれると否とに拘らず、今日においては、最早、この宇都宮判決により実証されるように、多くの下級審裁判所裁判官を含め、親族としての親子、兄弟、夫婦等の間の結合紐帯関係は、尊属から卑属に対する保護慈愛の一方的関係ではなく、いわんやそれは一方的命令服従関係ではもちろんなく、卑属から尊属に対する敬愛扶養の関係と不可分に結合併存する相互的関係と理解し、これが今日及び今後における親族共同生活のあり方であり、そこにおのずから本質的平等の関係がうちたてられるものであると確信している厳然たる事実である。現行刑法には、幸いにして妻の夫殺しや弟の兄殺し等について、子の親殺しに関する刑法第二〇〇条のような刑罰加重規定がないが、もしそのような刑罰加重規定があつたとすれば、そのすべてを一率に、つまり、子の親殺しの場合も当然に含めて、新憲法と改正民法との下における親族生活のあり方に反するとして、無効とするのが、今日の社会通念となつており、憲法第二四条の両性の平等、個人の尊厳等の理念は、既に着実に地について実現されているのであり、ただひとり、この尊属殺に関する規定だけが、死法化してしまつたに拘らず、取り片ずけられないで残つているに過ぎないことに理解を賜りたい。

以上の理由により、本件は、仮に殺人未遂罪の成立を認むべきものとした場合にも、刑法第一九九条を適用処断すべき案件であり、原判決は破棄すべきものである。

上告趣意第二点〈省略〉

弁護人杉本幸孝の上告趣意〈省略〉

弁護人高橋俊郎の上告趣意

原判決は憲法の解釈を誤り、違憲の法律を適用した違法がある。

一、原判決はその認定した被告人の所為につき刑法第二〇〇条を適用した。

二、しかしながら、配偶者の直系尊属を殺した者を死刑または無期懲役に処する右規定は憲法第一四条に違反し無効である。

三、憲法第一四条第一項は「すべて国民は法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において差別されない」と規定し、すべての国民が法の下に平等であるとの大原則を宣明した。而してここに、右条項の後段に社会的身分その他が列挙されているが、それは単なる例示であつて法の下の平等の保障がそれに限られる趣旨ではないことは既に御裁判所大法廷判決の存するところである(昭和三九年五月二七日大法廷判決、民集一八巻四号六七六頁)。

四、本人と配偶者との関係は婚姻により成立し、その時点において配偶者とその直系尊属との親子関係は配偶者の出生により発生ずみである。従つて、刑法第二〇〇条適用の面に限定して考えれば本人と配偶者の直系尊属との関係は、本人と配偶者との婚姻により発生し一般的には離婚又は配偶者の死亡によつて終了するのであつて、配偶者の直系尊属という地位も直系卑属の配偶者であるという地位も、社会生活のうちで、地位として相当の永続性を有するのであるから、これらの地位は右条項の例示する社会的身分に該当すると弁護人は考える。仮りにこれらの地位が社会的身分に含まれないものとしても前記のとおり右条項にいう社会的身分は例示に過ぎないから、この場合にも法の下の平等の原則の適用があり、差別待遇は明確な合理的理由がない限り違憲となる筋合である。

五、ところで刑法第二〇〇条によれば配偶者の直系尊属なるが故に一般人より強度の保護を受けることとなる。仮りにこれを他の者が被害者である場合に比し一層厚く保護する趣旨でないにしても少なくも右規定により殺人の犯人が直系卑属の配偶者である場合には殺害の相手が尊属なるが故に他の一般人が被害者である場合に比し重い刑罰が科されるのであるから、尊属と一般人、あるいは一般人と卑属を差別して取り扱つていることは明らかである。

六、尊属に対する罪の刑を一般の場合に比較して加重する規定の合憲違憲の問題についてのリーディング・ケースは御裁判所の昭和二五年一〇月一一日大法廷判決である(刑集四巻一〇号二〇三七頁)。右判決多数意見は「原判決は被害者が直系尊属なる場合においてとくに重い法定刑を適用することをもつて人命保護及び科刑の面において国民中に特殊と一般との区別を設くることになり従つて尊属親を一般の者よりもとくに厚く保護することになり、法律上不平等の結果を招来する趣旨を述べているが立法の主眼とするところは被害者たる尊属親を保護する点には存せずして、むしろ加害者たる卑属の背倫理性がとくに考慮に入れられ、尊属親は反射的に一層強度の保護を受けることあるものと解釈するのが至当である」と述べて、差別待遇でない旨を力説しているのであるが、立法の主眼が仮りに右判決のいうとおり卑属の背倫理性への考慮にあるとしてもその結果として間接的にせよあるいは反射的にせよ尊属親が一般の場合と比し強度の保護を受ける以上当然差別待遇が存在するといわざるを得ないのであり、原判決の右論証は差別待遇についての合理的理由の存在の説明には一応なり得てもこの場合における差別待遇の存在自体を否定することはできないものである。右判決が右のような苦しい説明をせざるを得なかつたことは右判決多数意見の論理の脆弱さを物語るものと評し得よう。

七、右判決多数意見は差別待遇をすることの合理的理由の説明として「このことは法が国民の基本的平等の原則の範囲内において、各人の年令、自然的素質、職業、人と人との間の特別の関係等の各事情を考慮して、道徳、正義、合目的性等の要請より適当な具体的規定をすることを妨げるものではない。刑法において尊属親に対する殺人、傷害致死等が一般の場合に比して重く罰せられているのは、法が子の親に対する道徳的義務をとくに重要視したものであり、これ道徳の要請にもとづく法による具体的規定に外ならないのである。原判決は子の親に対する道徳的義務をかように重要視することをもつて封建的、反民主々義思想に胚胎するものであり、また「忠孝一本」「祖先崇拝」の思想を基盤とする家族主義社会においてのみ存在を許さるべきものであるというが、夫婦、親子、兄弟等の関係を支配する道徳は人倫の大本、古今東西を問わず承認せられているところの人類普遍の道徳原理、すなわち学説上いわゆる自然法に属するものといわなければならない。従つて立法例中普通法の国である英米を除き尊属親に対する罪を普通の場合よりも重く処罰しているものが多数見受けられるのである。しかるに原判決が子の親に対する道徳をとくに重視する道徳をもつて封建的、反民主主義的と断定したことはこれ親子の間の自然的関係を、新憲法の下において否定せられたところの戸主を中心とする人為的、社会的な家族制度と混同したものであり、畢竟するに封建的、反民主々義的の理由をもつて既存の淳風美俗を十把一束に排斥し、いわゆる「浴湯と共に子供まで流してしまう」弊に陥り易い現代の風潮と同一の誤謬を犯しているものと認められるのである」と述べる。多数意見は、要約すれば「子の親に対する道徳をとくに重視する道徳」(いわゆる孝道である)を「人倫の大本、古今東西を問わず承認せられているところの人類普遍の道徳原理、すなわち学説上いわゆる自然法に属するもの」となし、その道徳の要請にもとづき道徳を法規として具体化したのが尊属殺等の規定である、とするものであると要約されよう。弁護人も道徳として親孝行が望ましいことを認めるのに吝かではない。しかし、ここで問題となつているのは「子の親に対する道徳をとくに重視する道徳」を道徳のままで国民の自発的意思に基づく遵守にまかせるかそれとも法律によつて保護しかつ強制するかである。法の下の平等の原則を破る例外の規定について、その差別待遇の合理性の論証は、緻密でかつ客観性がなければならないと弁護人は考えるものであるが、右多数意見は道徳の内容をその要請にもとづき法規として具体化したと述べるのみで、何故に法規として具体化する必要があつたかを全然論証していない。ただ前項記載の差別待遇でない旨の判示の内容をあわせ考えると、「子の親に対する道徳をとくに重視する道徳は人倫の大本、人類普遍の道徳原理であるからそれに違反した卑属の反倫理性は一般の場合よりも強度であり、従つてそれを重く罰する必要がある」ということになろう。しかし人倫の大本は親子関係のみに限らない。夫婦関係もまた人倫の大本である。何故に親子関係のみが特に法的に保護されなければならないのか、しかも親子関係でも「子の親に対する道徳的義務」のみをとりあげて「親の子に対する道徳的義務」については放置するのか竟に不明という外はない。

八、そもそも尊属殺等について一般殺人より刑を加重する考え方の基礎には右多数意見の説くとおり「子の親に対する道徳をとくに重視する道徳」が存在することは明らかである。多数意見自体は右道徳の内容について格別の説明をしていないが、それは明らかに「孝道」を意味する。このことは斎藤裁判官の意見に「元来孝は祖先尊重に通ずる子孫の道である。これをわが国においてのみ観るも曾つて生存したわれらが祖先は少くとも十数億を下らず、現存する子孫は僅かに八千余万に過ぎない。そしてわれらの使用する一言半句、その道具である口唇、さては我、汝それ自身でさえ祖先の遺産であることを三思すべきである。原判決ならびに少数意見の思想のごときは、この道義を解せず、ただ徒に新奇を逐う思い上つた忘恩の思想というべく徹底的に排撃しなければならない」とあるによつても明らかである。孝道が道徳として尊重されることは自由であるが、孝道が法律の保護を受けあるいは法律の内容をなす場合は孝道の内容を単なる親孝行というような素朴なとらえ方をしないで具体的に明確にするとともに孝道が法の歴史のうえで沿革的に如何なる役割を演じてきたかを検討する必要があろう。ここで論ぜらるべきは孝道の具体的規範としての内容であり抽象的に「親には孝行をすべし」と論ずることは意味がない。孝道が法律の保護を受ける典型は、親殺しに一般殺人より刑を加重する場合である。ところで沿革的にみた場合、上代における日本固有法には親殺しの罪という特別の規定はなかつたといわれている。それが大宝・養老律にいたつて、唐律を継受した結果、唐律と同じく親殺しなる特別の規定を設け、かつ非常な大罪とするようになつたのである。唐律はもともと儒教の倫理を維持する目的をもつて制定されたのであるから右のように孝道を最も重視したのは当然である。而して何故に孝道が重視されたかといえば支那の当時の家族主義を維持するためであつた。その後、わが国においては律令体制の崩壊に伴ない法制のうえで上代の固有法が復活していつたのであるが、鎌倉、室町時代の法典には親殺しの罪は見えない(例えば、貞永式目には縁坐の法はあつても親殺しを特別にとりあげてはいない)のであつて、親殺しの罪を刑法典のうえにあらわして特にその刑を加重するのは全く儒教の思想であり粋純に日本古来の思想ではないことに注意すべきである。その後江戸時代にいたつて朱子学がさかんに行なわれその影響で親殺し罪は再び重く罰せられるようになつた。そのあらわれが徳川八代将軍吉宗によつて定められた御定書百ケ条の親殺し等の規定である。それが仮刑律、新律綱領、改定律例、旧刑法と形は変わりながらも存続し、現行刑法に及んだのである。この沿革から明らかなことは日本の歴史において、日本固有法の支配した上代及び中世には、親殺しを特別に重く罰する規定はなかつたということであり、同時に、親殺しを重く罰する考え方は、儒教及び家族制度と密接な関係をもつていたということである。現行刑法についての刑法改正政府提出案理由書には「第二〇一条(現行刑法では第二〇〇条となつた)は、現行法第三六二条第一項を補修したるものにして、更に配偶者の直系尊属に対して犯したる場合に之を適用するは我邦の家族制度において特殊の必要存すればなり」と明記し、当時の学者の著書(大場茂馬著刑法各論上巻六二頁)にも、「法律は自己又は配偶者の直系尊属を殺す所の行為を特に厳に処罰す。之れ我家族制度を重んずるの精神に出てたるものにして余は双手を挙げてその必要を認むるものなり」と見えているのは親殺しを重く罰する考え方がいかに家族制度と密接な関係があるかの例証である。そもそも前記多数意見は「子の親に対する道徳的義務」を人倫の大本、人類普遍の道徳原理すなわち、学説上いわゆる自然法に属するものとなし「原判決が子の親に対する道徳をとくに重視する道徳をもつて封建的反民主々義と断定したことは、これ親子の間の自然的関係を新憲法の下において否定せられたところの戸主を中心とする人為的社会的な家族制度と混同したものである」というのであるが、前記のとおり立法の衝にあたつた政府の提出案理由書も学者も、いずれも家族制度との関連においてしか刑法第二〇〇条を理解していなかつたことは明らかである。沿革的にみた場合は、親殺し重罪規定は家族制度を維持するための役割を演じきたつたものである。右多数意見は右法条を合憲とするために唐突にいわゆる自然法論をもち出したが、右判決の原審こそが右沿革に明らかな尊属殺規定と家族制度との関係を正確に把握していたというべきであろう。

次に孝道は儒教を基礎とし家族制度の維持に奉仕するものとしてその具体的規範の内容は当然に儒教的色彩が濃厚であり「父母・父母たらずとも子は子たるべからず」という考えに象徴されるように、人間関係をすべて上下関係としての身分関係に構成する封建社会の秩序維持に最も好都合な、かつ現実にも秩序維持に貢献しきたつた道徳である。従つて前記判決の原審が尊属殺等の規定を多分に封建的、反民主々義的、反人権的思想に胚胎したものとして法の下の平等を主張する憲法の大精神に牴触すると断じたのは、右規定のはたしてきた役割および内容を沿革的にも理念的にも正確に把握したものと高く評価されるのであつて、多数意見こそ右規定の基礎に存す孝道の具体的内容および役割に目をつぶつて孝道を抽象的にのみ理解し、その理解を人類普遍の道徳原理と表現したものである。右に述べたような孝道の具体的道徳規範が「古今東西を問わず承認せられているところの人類普遍の道徳的原理」であつたことはなかつたし、ましていわゆる自然法とは関係がないものである。このような孝道の具体的規範が憲法の予定する個人の尊厳を基調とする思想と根本的に背馳することは明らかである。それだからこそ、尊属殺等の規定と発想および役割を同じくする尊属に対する告訴告発を禁止した旧刑事訴訟法第二五九条、第二七〇条の規定(この規定も唐律に淵源する)が廃止されたのであつて、尊属殺等の規定が法の下の平等の大原則に反することは明らかである。個人の尊厳と平等を基調とする親子関係においても親孝行が尊重さるべきことは当然であるが、それは孝道の具体的規範内容をなした、父母父母たらずとも子は子たるべき一方的関係ではなく、親も子も相互に人間として尊重しあう関係でありそれこそが「人倫の大本」でなければならない。そうすると右判決の真野裁判官の少数意見の説くように「子の親に対する道徳の中から、正しい民主々義的な人間の尊厳、人格の尊重に基く道徳を差引いたら、その後に一体何が残るであろうか。それは(一)子の親に対する自然の愛情に基く任意的な服従奉仕と(二)親の恩に対する報恩としての服従奉仕の義務に過ぎない。これらは本来個人の任意に委さるべきものであつて、法律上の権利義務関係となし、又はその他の法律上の保護を与えるには適当しないのである。却つて法律上の強制を与えないことによつてますます自由な感覚の下に道徳的価値を純化し高揚せしめなければならぬ領域に属するものである。……新しい孝道は人格平等の原則の上に立つて真に自覚した自由な強いられざる正しい道徳であらねばならぬ」といわざるを得ないのである。「子の親に対する道徳をとくに重視する道徳」を道徳の領域からひき出して法的に保護しようとすることは、現行憲法の精神とは相容れない考え方である。

九、刑法第二〇〇条の法定刑は死刑または無期懲役である。従つて、如何に減軽をしても懲役三年六月までであり、執行猶予を付し得ない。このように尊属殺の場合は、裁判官は情状の如何にかかわりなく実刑を宣告せざるを得ないのであるが、このことはいわれない差別であり、これを是認すべき合理的根拠はない。まして仮りに、前記判決多数意見のとおり、「子の親に対する道徳をとくに重しとする道徳」を是認するとしても、それを配偶者の直系尊属に対する関係にまで及ぼすことは、道徳として好ましいかどうかはしばらくおき、法的には合理的理由を欠くといわねばなるまい。配偶者の直系尊属に対する殺人につき刑を加重する規定は旧刑法にはなかつたものであり、これを創設した理由は前記刑法改正政府提出案理由書のとおり我邦の家族制度において特殊の必要が存したからであり、家族制度が違憲として排斥された今これを維持すべき理由は全くないと考える。

一〇、刑法第二〇〇条は憲法第一四条に違反する。少なくとも配偶者の直系尊属に対する規定は憲法第一四条に違反し無効である。ちなみに、昭和三六年一二月発行の改正刑法準備草案には尊属殺に関する規定はない。その理由はその理由書によれば「尊属殺を重く処罰することは憲法第一四条に違反する疑いがあるばかりでなく、尊属殺はかえつて情状憫諒すべき場合もないとはいえないし、一般の殺人罪に死刑、無期懲役の刑の定めがある以上、一般殺人の規定によつて処罰すれば足りるものと考えられたからである。 以上

弁護人金野繁の上告趣意〈省略〉

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例